手段と目的,そしてそれ自体

12月3日から5日まで,3日間高知市のかるぽーとにて,(サテライト企画の一部は春野運動公園体育館)第23回日本精神障害者リハビリテーション学会高知大会が開かれました.わたしも,実行委員としてサテライト企画フットサル,バレーボールやレセプションの盛り上げ役(着ぐるみも着ることができました!!),座長に会場責任者など,様々に役割をいただきました.大変貴重な機会であり,多くのありがたい出会いがありました.職種や立場の違いを越え集えるこの学会で大きな刺激をいただきました.この場を借りて,かかわったすべての方々に感謝いたします.

特に,座長をさせていただいたセッションでは,多くの新しい発見をいただきました.中でも特に感じたのが,「手段」と「目的」の違いについてでした.たとえば,スポーツ.スポーツをする際に,「健康のため」とか,「コミュニケーションの能力を上げるため」とか,「社会参加のため」とか,いろいろな目的を実現する手段として,行われることがあります.(というか,むしろリハビリテーションの現場においては,手段として用いられる,実施されることの方が多い気がします.)「スポーツをすると認知機能が向上しますよ」「スポーツはダイエットにもつながりますよ」「夜に,よく眠られるようになりますよ」そんな視点が多くみられるように感じます.それは,それで大切な要素なのだと思います.「手段」としての利用をすることで,ニーズに合致することもあることは事実です.

しかし,一方で,「目的」という視点もあると思います.スポーツをすることが目的であるということ.その副産物が,先ほどの健康やコミュニケーション能力の向上や社会参加であるということ.その視点もあるのだと思います.そして,そのことにわたしたちはともすると無自覚になるのだと思いました.このあたりは,OBPや生活行為向上マネジメントで重視されていることでしょう.

作業療法の歴史では,そうした「手段」と「目的」の間で,パラダイムシフトが何度か起こってきました.「手段」と「目的」の考え方の違いによる対立.時にそれは,作業療法士にアイデンティティ・クライシスをもたらすような深刻な問題(信念対立)をもたらすような不幸な出来事を生みました.そのような苦しい時代を経たうえで,現在にたどり着きました.現在は,作業に焦点が当たっている時代であると感じています.さまざまなひとが,さまざまな場所で,作業の大切さについて話されています.「そのひとの住みたいところで,そのひとがしたいことができる」それは,今,一番大切にされていることでありますし,一番コンセンサスを得ている視点であると思います.こうして,ようやく手段と目的のあいだの不毛とも思える争いに終止符が打たれようとしています.寺岡さんが開発されている「OBP2.0」を筆頭に今,「手段」とそれを包括する「目的」を裏付ける理論が構築されているのだと思います.

だが,それで手放しで安心してよいのでしょうか?

「手段」と「目的」を両立させる理論により,不毛な争いはなくなろうとしています.それは,素晴らしいことです.それは間違いありません.

しかし,ともするとそれは,思考有意に偏ってしまう可能性があるように危惧します.「手段」でも,「目的」でもない,「それ自体」の作業(作業療法)にもともと備わっている視点が「失われつつある」そんな気がしています.

うまくまだ言葉にできないところで,もどかしさがありますが,スポーツをするということ,それ自体にしっかりと浸るということ.それもまた,あってしかるべき視点な気がします.

ここまで書いてきて,感じました.
「きっと,こんなことは,他のみなさんは,当たり前なことなんだ」ということに・・・.
しかし,思考有意になりがちなわたしは,自分に対する戒めのために今,ここに書き残そうと.

それ自体.そこにボールが転がっていれば,蹴りたくなる.そこに棒があれば,振りたくなる.魚が泳いでいれば,捕まえたくなる.泳ぎたくなる.山があれば,上りたくなる.その湧き上がってくる感覚に身を浸し,自然と体が動く,その感覚にまたからだを浸す.それによりこころに広がっていく感情をからだで感じ,それにもまた浸っていく・・・.それ自体を,ひたすらに,それでいて自由に,ただ感じていく.そんな「それ自体」の体験.そんな視点も必要なのかな?と思いました.

うーん.どうでしょう??

今は,そんな感覚です(笑)

1 件のコメント :

  1. 「それ自体」という発想いいですね。「目的」でも「手段」でもない世界が確かにありますね。

     みんなで楽しそうにしている活動(ゲーム、サッカー、陶芸など)を見たり、聞いて、私も・・と参加したくなることがある。

     目の前に楽しそうにしている活動を見たり、体験談を聞くとき、そんなに楽しいなら・・・と

     織田さんの意味を私なりに、次のように推測しました。

     「そこにそれが在るから・・・できるそれ自体」という経験できるチャンスがそこに在る。とか 「パラレルの場」も同じ発想でしょうか。「いつも おなじ時間帯に そこに それ自体がある」

     愛媛で織田さんが話された言葉を今でも、覚えています。次のような内容でした。正確ではないのですが・・・。
    「うつ病の作業療法で、家事動作の食器を洗うためだけの作業をし、 食器がきれいに洗えたかどうかは問題ではなく、 ただ、 無心(無の境地、没我性)に洗うという、洗うためだけの行為。・・・」と言われました。   
     
     この状況のキーワードとして 思いつくままに・・・。
     夢中になって・・、没頭・・・、楽しい・・、無心、 集中、 リラックス、興奮、心地よい、脳のα波、作業依存、脳に仕事をさせてあげる、手を使う作業をすることで脳の活性(賦活)化、      

     作業療法の魅力を伝えるうえで 私の好きな言葉 
     「作業をすることは、自然の最も優れた医師であり、それが幸福についての条件である」(ガレノス)
     「作業をすることで、ひとは元気になれる」


     人は手を使い進化。頭脳と手の関係。手を使うことで脳は多くの働きをする。働いた「脳」は、なにかしたという達成感で満足?。何もしないでいりことが疲れるときがある。自分からはしないが、他人に誘われてする「それ自体」があり、作業・作業活動をすることで得られる副産物も沢山でて、それがひとをさらに動かすことがある。 

    「それ自体があれば、それを楽しめる」という「それ自体」と織田さんは思われているのでしょうか?。 
     
     思いつくままに 書いてみました。 

     愛媛の大西 
     

     

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